標準的確率の公理
コルモゴロフによる確率の公理は以下のようなものである。
根元事象の集合を標本空間といい、この標本空間の部分集合を要素とする集合族をとする。の要素を事象という。
- は集合体である
- の各集合Aに、非負実数P(A)が定められている。この数P(A)を事象Aの確率という
- AとBが共通の要素を持たない時、
- の事象の減少列についてならば
を満たすとき、を確率空間という。
現実世界との関係
確率の公理は純粋に数学的な公理として問題ない。だが、確率は現実世界を記述する概念なので、これが現実世界とどのように関係するかどうかを明らかにする必要がある。
頻度主義
現実世界で繰り返し実行可能な一種類の試行に対して確率空間が定義される。その試行の結果起こりうる根元事象の集合が標本空間であるとする。そして、根元事象の集合である事象Aの確率P(A)は以下のように意味付けられる。
:試行をn回繰り返したとき事象Aが起こった回数をmとすると、は、nを非常に大きくするとほぼP(A)に等しいと確信できる。
実際、コルモゴロフの『確率論の基礎概念』にはこのような原理が述べられている。
このような確率の解釈を頻度主義という。
だが、nを「非常に大きく」とはどの程度大きいのか、「ほぼ等しい」とはどの程度等しいのかという問題は残る。無限回の試行にすれば厳密に等しくなるが、無限回の試行などというのは現実には存在しないという新たな問題が生じる。
ベイズ主義
頻度主義に対して、ベイズ主義という確率の解釈は、確率を、その人の手持ちの知識を前提とした個人的な信念の度合いであると捉える。こうすれば無限回の試行という問題を回避できそうに見える。しかしそれでは確率の客観的な部分がどこに由来するのかがわからなくなるだろう。特に、確率を計算する量子力学は物理法則だから客観性があるはずである。しかも、ベイズ確率においては確率分布は知識の取得と共に変化していくから、コルモゴロフの公理と相性が良くない。
確率空間の拡張
確率の新解釈
そこで、ここでは確率の新たな捉え方を考えてみる。
確率というものは現実世界の事象に対して直接定義できない。意味があるのは、事象そのものの確率ではなく、何らかの試行をした後の確率分布である。
より一般化すれば、現実の確率とは全て条件付き確率であるということである。
例えば、サイコロを転がしたときの1の出る確率というのは、サイコロを転がすという条件の下での付き確率である。
そこで、数学的構造もこの事実を反映したものを考えてみる。
確率の公理2
基本はコルモゴロフの公理と同じだが、③は不要である。
現実的に意味のある確率は、条件付き確率としてのみ定義され
となるので、自動的に確率は1以下となるからである。
解釈
ここで、根元事象は過去現在未来全てにわたる全宇宙の歴史であるとする。
こうすれば、根元事象が根源的でありこれ以上区別できないということが明確になる。
現実の根元事象はただ一つしかないが、標本空間はいわば物理的にあり得た宇宙の全歴史の集合であるといえる。つまり無数のパラレルワールドのようなものだ。
そして、根元事象が全宇宙の歴史であるならば、根元事象の集合(事象)を、条件によって指定できる。条件Cに当てはまる歴史の根元事象全体の集合が、Cに対応する。
このような公理に基づけば、我々の現実世界を記述する確率空間はただ一つのものであると考えることができ、原理的レベルで理解が単純化される。
例えば、「サイコロをふる」などといった特定の試行についての確率を調べたいときは、その思考に対応する標本空間の部分集合Dについて考えれば良い。確率P(A)は、確率P(A|D)の省略記号であると考えれば、通常の確率の考え方がそのまま成立する。
頻度主義とベイズ確率の再解釈
この解釈に基づくと、
とすれば頻度主義は自然に思える。無論、それぞれのパラレルワールドに確率的な重み付けがされている場合も考えうる。パラレルワールドの個数を離散的にカウントすることもできないだろう。だが離散的にカウントできる場合を考えれば頻度主義の自然さを伝えるには十分だと思われる。さらに、「無限回の試行」という形而上学的な観念に迷わされる必要はない。
ベイズ確率もこの条件付き確率としての解釈に沿って理解できる。知識を得るごとに条件付き確率の条件を追加していけば、それは主観的なベイズ確率として理解できるというだけのことだ。
この確率解釈にはっきりとした実用性があるかは不明だが、客観的な物理法則と曖昧に見える確率の関係を理解する上際に見通しが良くなると思う。